保育者様へ

フレーベル館のココだけの話

 

HOIKUのYOU歩道 第12回 本吉圓子先生のあんなこと こんなこと

2014/06/20

第12回目は、生活内容研究会の本吉圓子(もとよし まとこ)先生にご登場願いました。
本吉先生の“保育の遊歩道”には、どんな発見があるのでしょう?
あなたの保育を楽しむために、ご一緒に歩いてみませんか?
“遊歩・優歩・YOU歩”…あなたにとっての道の向こうには、何が見えますか?

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本吉圓子先生の「はじめまして物語」
私のプロフィール

私は、1931(昭和6)年に東京の麹町に生まれ、小田急電鉄が開通したのを機に、世田谷区梅ヶ丘に移り住みました。女学校の2~3年生の時は、窓ガラスも無い満員電車に死ぬかと思うほど押し込まれながら、学徒動員として軍需工場に通勤していました。

学生時代に福祉施設(少年院、教護院、養老院など)の見学があり、保育園にも行きました。そこでは、ララ物資(LARAアジア救援公認団体)で配給される洋服や靴を身につけて(注:私たちも食料、靴、衣類などの配給を大喜びで頂いて生活していました)、小学校の払い下げの机と椅子、軍隊からの払い下げのアルミのベコベコにへこんだ食器で、頭にも体にもおできのできた子どもたちが遊んでいる光景を見たのです。

保母になって

その3年後、保母になり、東京都立の保育園に勤務することになりました。

戦後、1960(昭和35)年頃までは、運動会の玉入れの籠も綱引きの綱も手作り。竹で編んで作った籠をお店から貰ってきたり、古い浴衣を切って三つ編みにしたりして、綱を作って遊んでいたのです。

ある日、「僕の家に子犬が6匹も産まれたから見に来てー!」と、S君。さっそく、行ってみると、S君の家は、陸軍、近衛の騎兵連隊の元馬小屋。そこは、空襲で家を焼かれたり、満州などからの引き揚げてきた人たちの住居として使われていました。

外観は馬小屋のままで、馬がいた両側に板を張って畳やゴザを敷き、通路には七輪や鍋釜を置いて暮らしているのです。

「先生、こっち、こっち!」と、S君に手を引かれて行くと、通路の奥から子犬がチョロチョロと出てきました。その姿のかわいいこと。夏の陽は明るく、みんな外に出ると、園児たちが大勢出てきました。

家庭訪問の思い出

ある日、児童票を見ながら家庭訪問に出かけたのですが、公園の傍には目的のYちゃんの家がないのです。「この住所にあるのは、消防署と公園だけです」と、消防署員。そこで諦めて帰ろうとした時、「本吉先生!」と、Yちゃんの声! 連れて行かれたのは、なんと公衆便所。見れば、便器の上にベニヤ板を並べて親子7人が住んでいました。

駅の隣、パチンコ店の2階がT君の家。電車を降りてホームを歩いてすぐ。大人が一人やっと通れる路地裏にあるはずなのですが、玄関も何もないのでウロウロしていると、「あっ、本吉先生!」「その梯子を登って来て!」と、T君。T君の家は、パチンコ店の屋根裏。しゃがまなくては入れません。

N君は、母子家庭。その日は、21時を過ぎても母親が迎えに来ない。何が起きたのか? タクシーを走らせ、やっとN君の家を見つけると、真っ暗。近所の人に聞くと、「今日、昼間に引っ越しましたよ…」。翌日、福祉施設の一時保護の手続きを済ませた時、「本吉先生のおうちの子になりたい」と言ったN君の声は、50年経った今でも忘れません…。

公立保育園の研究会で

世田谷区に開園する保育園に配属された時、「起床時間や就寝時間まで、家庭に“指導”するのか?」という疑問をもちました。「保育園とは?」「保育とは?」…若かった私には、理解に苦しむことばかり。ほかの園もまったく同じ印象に思えてきたのです。そこで、「さて、それでは自分の園をどうするか?」を、常に考えました。

東京都公立保育園研究会(昭和27年頃)の会長は、秋田美子先生。その年度によって研究会の編成が変わることもあり、私たち保育者は、それぞれが希望を出して18時半頃から21時頃まで自主的に参加していました。

保育園の遊戯室に並べられた子ども用の椅子のいつも空いている最前列の真ん中に、私が座ることになります。

講師は、秋田美子先生、鈴木とく先生、増子とし先生。年に何回か、平井信義先生や岡田正章先生なども。講義が終わって質疑応答になると、誰も手を挙げません。そこで、私だけが手を挙げ、「何もわからないので、教えてください。毎日、朝も帰りも、お弁当の時間にも、同じ歌を子どもたちに歌わさせなければいけないのでしょうか? トイレに行きなさい、外に出なさいなどと、すべて保母が決めてよいのでしょうか? もう少し、子どもに任せて体験させてみたいと思っていますが?」…このような質問をしていたように記憶しています。

“保育って難しい“

昭和20年代後半頃、まだ図書館などはほとんどありませんでした。お茶の水の日仏会館の隣に婦人図書館があり、その名称の通りいわゆる育児書的な書籍ばかりで、保育に関する書籍はほとんどなかったのです。A.S.ニイルの『問題の子ども』やS.ゲゼルの本などがほんの少し置いてあるだけでした。その後から、M.モンテッソーリやF.フレーベルの書籍が入ったような記憶がありますが、定かではありません。

昭和55年:事務室で当時、毎日曜に通い、閉館まで読みあさっては、“保育って難しい”と思っていたものでした。

私と音楽…

保育園の昼食時は、チャイコフスキーやメンデルスゾーンなどのクラシック音楽をかけておきました。レコードは、私の下手なピアノ伴奏をいつも補ってくれていました。いや、リードしてくれたのです。

歌も、小学唱歌、スコットランド民謡、アイルランド民謡など、日本中、世界中の人たちが馴染んでいて、誰もが生涯歌える曲を歌うようにしていたのです。

人類が続く限り、歌い継がれていく歌。子どもにも歌える音域であれば、折にふれてレコードをかけていました。子どもたちは自然に覚え、私が最初に受け持った年長児は、ベートーベンの『歓喜の歌』やドヴォルザークの『新世界より』などを歌って卒園していきました。

ある日、作曲家の早川史朗先生と小谷肇先生と三人で、幼児の歌について話をしていたところに、15年前に担任をしたNちゃんが訪ねてきました。「短大の保育科の学生ですが、今でも、保育園で歌った歌だけよく覚えていて歌いたくなるんです」と、Nちゃん。

この会話を早川先生と小谷先生が、真剣な顔で聞いてくださっていました。私は、小学唱歌は、歌のもつ高尚さからも永遠に歌い継いでいくべきだと思っています。

私と保育絵本・『キンダーブック』との出合い…

昭和20年代は、図書館でも書店でも幼児向けの本はほとんどなく、宮沢賢治や新美南吉、浜田広介の全集的な本しかなかったのです。昭和43年頃、椋鳩十の全集を見つけ、「私が探していたのは、これだ!」と感動しました。私の想いは大当たり! 毎日2時間欠かすことなく読み聞かせると、目を輝かせて聞いている子どもたちの姿がありました。まさに、子どもたちに感動を与える内容です。

この話をしたところ、私が読み聞かせをしている様子を見学したいと、フレーベル館のI氏が数人の編集者を連れていらっしゃったのです。

宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』を読み終わった時、「もう1回読んで~!」と、複数の子どもたちの声。「本吉先生が話してくださったことは、本当なのですね」と、I氏。さらに、「本吉先生も、保育絵本を使われるのですか?」と質問してきました。

「私は、ずっと、子どもたちのために保護者から保育絵本を買っていただいています。私が知らないことをたくさん『キンダーブック』やほかの保育絵本などから教えてもらい、保育を助けてもらっていますよ」…。

たとえば、こんなエピソードもあります。「先生、このおはなしは絵があってよかったね」と、A君。「えっ? どうして?」「だって、ほら、この船、泣いているよ!」…よく見ると、『キンダーブック』の難破船の舳先の下には、芥子粒ほどの小さな点々(船の涙?)が描いてあったのです。

子どもは、しっかりと絵を読み取っているのですね。

83歳になった今でも、季節の花や虫などの図鑑(保育絵本の付録)を持って散歩に出かけています。花や鳥を見た時、子どもと同じように、その姿や鳴き声などに興味をもって観察するのが楽しみなのです。

昭和53年頃でしょうか、編集のT氏が浜辺で不思議な格好をした猫がフラダンスを踊る絵について相談に来ました。私は一読するなり、「これはおもしろい! 絶対に子どもの大好きなおはなしです。絵も素敵!」と、後押ししました。

これが、人気シリーズの『ねこざかな』だったのですね。

『キンダーブック』の編集委員として

私がキンダーブックの編集委員として携わったのは、今から20年前(1994年)のことです。『しぜん』の企画の中で、ライオンがシマウマを追いかけて食べるシーンが描かれていました。それを見て「こんな惨い絵を子どもに見せても大丈夫なの?」と、林健造先生が厳しい顔でひと言。「幼児は、こういうことも厳粛に受け止めますよ」と申し上げると、「そうですか、絵本の役割って大きいんだなー」というようなことをおっしゃって笑顔になった林先生でした。

無藤隆先生とは、編集委員会の帰りの電車で新宿までご一緒し、絵本や保育の話をしたものです。そのことも、毎回の楽しみでした。

編集委員会は子ども観や保育観が違う先生の集まりなので、意見がぶつかり合う場面もありました。それでも、編集担当者も編集長も編集委員も、誰もが率直な意見を出しながら、自由に話し合えた印象です。それは、編集部の上層部の方も必ず出席されて、よりよい絵本を作り上げるために、それぞれの意見を重視していたからでしょう。

会社の本作りに対する心意気をいつも感じていました。

私とフレーベル館・『保育専科』との出合い

現在のフレーベル館の保育雑誌『保育ナビ』の前身でもある『保育専科』の発刊(1973年)に際し、「品位のある質の高い保育実践を誌上に!」という編集部の想いを受けて、私は[生活内容研究会]を発足し、私と“子ども観・保育観”を同じにする保育者が集まって、これまでに毎月実践研究を重ねてきました。当時の編集長のK氏ほか、愛社精神旺盛でエネルギッシュなスタッフばかりでした。

『保育専科』では、保育実践研究のために、1年間12か所の園に赴き実践指導した内容を連載していました。それは、見学された方々が感動された実践の数々です。地方では、郷土料理を戴くのも楽しみでした。当時は、担当の編集者も同行していたことから、私が大食いであることも知れ渡ってしまったようです。

毎月、原稿を受け取りにきた編集者とは、その度に2~3時間も保育の話をしました。「フレーベル館の原稿を書くのは大変だけど、やり甲斐があるのは、編集者の方が保育を理解してくださっているから」と、研究会のメンバーとは、よく話題にしたものです。

『保育専科』に連載された当時の実践研究を読んでみたいという要望は、今でもたくさん寄せられています。

『これからの保育』に寄せて…

『これからの保育』(全6巻)は、平井信義先生、海卓子先生、大場牧夫先生、森上史朗先生と、末席に私も参加させていただき、月1回の割合で3年間も会議で討論を重ねながらまとめた本です。

このように歳月をかけて本作りができる編集部体制があったのは、フレーベル館だからこそできたのでしょうか。とても充実した時間でした。

幸せな保育の仕事…

保育者になってからの思い出と言えば、尊敬できる師と出会い、職場で“保育観・子ども観”が共通認識できる人間関係が築けたことから、保育がもっともっと楽しくなったことでしょうか。

私が80歳の誕生日に、「お姉さん、医者になるはずだったのに、保母さんになって、どうでしたか?」と、今までは保育の「ホ」の字も話したことがなかった妹に聞かれました。

「人として、子どもを育てる仕事ができた私は、最高に幸せ者よ!」…。

編集部より

本吉圓子先生  あ・ら・か・る・と

私が『保育専科』を担当したのは、10年10か月間(=計130冊)。その間、本吉先生の実践研究を担当。毎月、先生の目の前で原稿を読み、実践の感想を伝えるのですが、その捉え方が的を射ているのかどうか? 当時のドキドキ感は、今でも忘れません。

本稿の打合せでは、懐かしい思い出話から実践事例の書き分けや絵本観にまで及び、随分と話に花が咲きました。本吉先生の熱い絵本への視点には、“なるほど!”の連続! 「保育実践」と「絵本」をつなげて考えると、実におもしろい発見がたくさんありました。

どちらも「子どもにとって大切なこと」だからなのでしょうね。

2014.Jun(C.S.)

 

本吉先生の著書から

本吉先生の書籍好評発売中!

 

『私の生活保育論』

本吉圓子/著

1,800円(本体価格)

私の実践記録『私の生活保育論』

私の保育の基本書でもある著書『私の生活保育論』が出版されたのは、1979(昭和54)年、今から35年前です。当時、『保育専科』に3年間掲載した実践記録と私が実践してきた保育という仕事の一端でも読み取っていただきたいという想いで、加筆し、まとめました。若い保育者のための実践のたたき台になって欲しいという反面、本音としては実践の現場はもっと生々しい毎日であることを、本書からストレートに感じて欲しいと願っています。

その中で私が伝えたいのは、“よい保育者になるためには、まず、“子どもを見る目”“保育を見る目”を鋭くしていくということです。保育の出発点は、何よりもまず、限りなく子どもを受け入れ、子どもと共感する“心”だと、私は信じています。保育者に愛されているという自信・信頼が安定感を生み出し、“この先生は、自分をわかってくれる”と感じると、子どもは安心して本音で保育者に歩み寄ってくるようになり、“その子自身の頑張ろうという意欲”が育っていくのだろうと思うのです。

田研セミナー(一般財団法人 田中教育研究所の講習会)では、30年来、本書を紹介しています。また、一昨年に大学を退任された稲垣佳代子先生が30年間、教科書にしてくださいました。今でも必要とされていることに感謝するとともに、その内容に責任を感じています。

また、本書は、若い読者のために電子書籍としても出版されています。紙の書籍しか知らない私にとって、時代の移り変わりを感じながらも、“保育の質”にこだわる保育者の姿勢は、いつでも変わらないと信じています。

本吉圓子の保育実践の思い出 あんなこと こんなこと ・・・

 

☆ 保育に生きる実践記録

「本吉先生の1週間の指導計画をそっくりそのまま真似してみたら、1週間で子どもが変わりました」という手紙とその実践記録が届きました。今では、原稿を書く知力は衰えて自信をなくしていますが、私の実践記録は、現在も保育に生かされると信じています。

☆ 「子どもが変わる」って、本当?

噛みつく赤ちゃん、集団から外れる、走り回って落ち着かない、3年間ひと言も園ではしゃべらない(家では話すのに)、パンツの中にしかウンチをしない、おねしょをして困る…そんな子どもたちが、5分か10分で、本当に普通の子どもに変わったのです。この実践が本当かどうか、信じますか? それとも?

☆ ドラマチックな取材珍道中

『保育専科』の取材で愛媛県に行った時のこと。車内で同行の担当編集のSさんと打合せに夢中になり、あっと気づいた時には、下車駅を素通り! 駅に迎えに来ていたH園長は、私が乗り越したと判断、機転をきかせて駅員さんと連携、電車を止めたのです。乗客が見つめる中、線路を横切って対向車線の電車に乗リ込む二人…。まるで、映画のシーンのような思い出です(笑)。

→ 「編集部ピックアップ」 でも、本吉先生の著書を詳しく紹介しています

 

編集部より

著書のおすすめPOINT

“時代が変わっても、目の前の子どもと向き合う保育者の姿勢は変わらない”という本吉先生の想いが詰まっている『私の生活保育論』。長い間、読み継がれていることの理由には、“子どもの気持ちに同化している(寄り添う)”とも言える、本吉先生の鋭い感性と保育観があると感じます。

新制度に向かって保育を考えた時、これからの実践のあり方や自らの保育の原点回帰にもなる1書としておすすめします。

2014.Jun(C.S.)

 

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